2008年2月10日日曜日

山と登り口

最近、湯川秀樹の自伝・関連書を読んでいます。

その中での記述で
「創造するのは常に少数派である」
「物理が数学物理化していくのを危惧している」
があり、それについて考えることいくつか

まず、物理は数学を使ってやるもの、そして研究のアプローチは実験か理論のどちらか、ということが慣例というか定式化している。たいていの場合、重要になってくるのがどの分野をやるかということ。

そこで気になるのが弁証法について。
物理は数学以外ではやれないのだろうか?理論と実験以外で検証できないのだろうか?という疑問があがってくる。後者は長い歴史の中で議論されてきたことであろうから理論と実験によって検証されるというのは今のところ納得している。

しかし前者については議論の余地があるだろう。数学以外ではやれないのか、というよりも既存の手法以外での検討はあるのではないか、という方がニュアンスが近い

これからは話が少しズレるが、研究を全くかじっていない身分だから書ける内容だと思う。

研究を山登りに例えよう。この例えは湯川氏の例えらしいが、記述しやすいので引用。

すると登り口はその研究手法、または分野などになってくる。
アメリカで、素粒子を研究したいという学生と話して感じたことなのだが、彼らは「超ひも理論」という手法が有用かどうかが主たる関心事だ。つまり、どの登り口で行くことが頂上を目指せるだろうかということを議論する。

一方で山選びはどうだろう。それに対してはあまり重要な時間がかけられていない気がする。どの山を
いくか、他に山がないかどうかを探してみることは気にかけられてない。山をとっとと決めて登り口に関して情報を集めたり、まわりをうろうろしてみたり。

富士山を御殿場口で行くか、大宮口で行くかも大事な問題なのかもしれない。ただネパールにエベレストがあることを見逃していたらえらいことじゃないか。各々が山を見つけることの必然性は全くないが、少しは周りを見わたしてみることが必要だろう。

アインシュタインは時間を疑って、相対論という山を見つけた。湯川秀樹は中間子を導入して、素粒子物理という山を見つけた。ただ、彼らが既存の物理や数学に精通していただけでは不十分だったように思える。個人的には、山を見つける原動力というのは哲学にあると思う。アインシュタインは哲学をやってる友人と交わっていたというし、湯川秀樹は東洋哲学に通じ、西田幾多郎の講義に熱心だったといわれる。
その思想的な要素が彼を新しい山に引っ張っていったのだと思う。

いま、私を含め自然科学をやる学生はそういう堅苦しいことを十分にやっていません。反省として少しは哲学をやりたいと思うわけです。


山の例えは自分にはしっくり来るのですが、違っている点もある。それはエベレストを登ろうがアンデスを登ろうが終着点は同じだと信じられている点。走り書きなので、論理がめちゃくちゃだ

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