2008年3月6日木曜日

バッテリ

さっきバッテリーという小説の最終巻を読み終えた。児童小説で、読みながら色々と昔のことを考えてしまう。この本は知的な刺激ではなく感性に訴えかけてきて、読んでいる途中に自分が書きたいという衝動に書きたてられた。昔、考えていることをそのまま整理せずに話すという英語表現を覚えていたのだが、ずっと思い出せないでいる。

本の主人公はまれに見る天才ピッチャーで、唯我独尊。そんな主人公に自分を上手く投影してあったせいもあってか、ある場面がきっかけに自分の思考のスイッチが入った。別にどんな主人公でも良かったのだが、感情移入しやすい状態になっていた。

サンディエゴの太陽を浴びながら芝に寝転んで読んでいた。その場所は大学の中心となる整然とした歩道の脇に整備された芝生である。歩道を挟んで、Price Centerというコンクリート作りの近代的な建物が見える。

そこで、ある場面というのはおおざっぱに書くと、野球を通して人間的に変化してきた主人公とその仲間が、思いつきで木登りをしようということになった。初めて主人公は大きな木に登り、その上から舞台となった広島の新田という町を見下ろす。決して都会ではないその町の情景描写と、少しの登場人物のやりとり。そんな何でもない場面は、私が幼いときに感じた木の匂い、土の匂い、風の匂い、そして眺めていた風景を思い出した。

そして、最近感じていたこととふと結びついた。サンディエゴの家から出てゆっくり歩くとき、道路や街路樹は整然としていて、それに余りある太陽が降り注いでいる。なんとも眩しい光景であるが、何も匂いを感じなかった。日本にいたとき、特に田舎では、何か有機的な匂いがする。気になるにおいでもあれば、長くいると心地よい匂いでもある。そこから生命やら人間の営みなんかを感じていた気がした。

サンディエゴで生活しているときに感じる違和感はこれと関係あるのではないかと思う。海以外、どこに行っても人間の手が加えられて秩序だって整備されている。住宅もゆとりをもって建ててあるし、大学の建物や道路にしたって、綺麗に秩序を持って存在する。旅行者として訪れたら、のどかで綺麗な街だと間違いなく感じるだろう。ただ、そこには有機的な匂いがない。

いったい、この秩序はどこから来たものなんだろう。この地に根付く人間が何らかの衝突や試行を繰り返して、この地で生まれた秩序ではない。これはアメリカが、さらにサンディエゴが新しい都市であると知っているから生じる大きな勘違いかもしれない。整然とされたこの都市の秩序は、どこか別の場所で成立していて一般的に評価を受けたものを持ってきただけに過ぎない、きっとそうだと思う。

この国は不幸にもお金があるために、開発するときのスピードが早く、簡単に思い通り整備できてしまう。誰にも止めることはできない、必要もないだろう。ただ、そこに混沌とした有機的な営みの入る余地はない。それでむき出しの大地をさっさと覆ってしまう、人が生活する場所は綺麗に整備されている。目に付く場所には確かに秩序があるのだが、この土地固有のもの、その場所に融合していると感じることはあまりない。

もし私がこの場所で育っていたら、まったく違う人間になっていただろう。こういう感じ方をしない、その代わり恐らく別のことを感じる、自分でも想像のつかないほど違う人間に。そういう育ちに興味があるが、怖いというほうが強い。

やはり歴史というのは、単純に時間が長いというだけで、複雑な要素が絡み合い、反応し、そして平衡状態へ向かうということを許してくれる。そして、その場所に合った何かが形成されていく。
昔は、自分の育った田舎や今の実家の周辺を見苦しいと感じるときもあったが、それは自分の中で勝手に正しい秩序というのを設定してしまい、それと比べてしまった結果じゃないだろうか。特に熊本は何でも混沌としている傾向があるが、それが味というものではないだろうか。

阿蘇の田舎の人たちの生き方や考え方に「なぜ」と思ったことが度々あった。しかし、近代化によりお金や情報などが入ってくる前はきっと、独自の秩序を持っていたはずだ。彼らも大きな変化に翻弄されているだけなんだろう、そして都会を中心におこる教育・経済・文化などの多くの変化を田舎に適応させる分、時間がかかるのは当然といえる。

サンディエゴはどういう街なんだろう、私が感じるようにただ不自然なだけなのだろうか。
やはり、考えていることを整理せずに話すという英語表現を思い出す必要がある。こういう文章を書いた言い訳に使えるだろうから。

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