2008年4月27日日曜日

ボルツマンの原子-理論物理学の夜明け

オーストリアの物理学者ボルツマンの伝記、主に彼の原子運動論での業績と哲学者であり物理学者であったマッハ(音速のマッハの人)との哲学的論争につい て書かれています。新しい概念を導入する近代物理学の重要な岐路では哲学的論争が起こります。その中でも、最も有名なのが量子力学をめぐるアイシュタインと、ボーアなどのコペン ハーゲン学派の対立で、「神はサイコロを振らない」というアインシュタインの発言はこの論争から来ています。


多くの事をこの本で考えさせられたのですが、まとまっていないまま書いてみます。まずタイトルの通り、原子論の有無、つまり原子が存在するかどうかを発端として
「原子は目には見えないが存在するのか? そもそも存在するとはどういうことか?」というのが軸になっていました

今では疑いの余地がない原子の存在ですが、19世紀後半ではマッハによる
「私はもはや原子の存在を信じません」という発言の方がむしろ受け入れられられたという状況でした。当時の若い世代には十分な根拠がないままも原子の存在は受け入れられたのですが、古株の物理学者を納得させるには不十分でした。

マッハの発言の根拠は、科学というのは絶対的な経験則に基づくべきで、経験を超えた原子などを導入して何かを説明することは科学の範疇を超えているということで した。彼の論点は経験でわかる範囲の現象を体系化させるのが科学であるとしました。ある意味でそれは素朴な感覚と言えるでしょう。

では現代に戻って、未だに人類の中で原子を"見"たことがないのに、その存在が信じられているのはなぜでしょう?
ここで重要なのは、見るという"経験"は一体どこまで絶対的なのか?ということです。

ま ず百聞は一見に如かずとは言いますが、人間が見ている光の範囲は可視光だけで他の領域の波長は全く見えていません。そこで、もしX線を物質に当てて機械で 観測することを人間の代わりに見ることと仮定すると、原子は見ることができます。これは原子の証拠と言えます(それでも原子一つを取り出して見るこ とは出来ません)。視覚的に見るということは完全に客観的な情報ではないのです。

そこで、「手のひらにでも載せて、ゆっくり色んな角度から見れないと何かが存在しているとは言えない。そこに"それ"があ るということを経験できない」という反論があるかも知れません。これは経験則に基づく実在論なので正しいような気がするのですが、実はそうでもありません。

それには二つ理由があって
" 目で見る"という作業は一つの視点でしかないので相対的であるからです。例えば「目で見たことし か信じない人」がいたとすると、その人は正方形の存在を信じることは出来ないのです。どういうことかというと、真に正方形が存在したとしても、目は一つな ので必ずどこか歪んで見えるか斜めに見えるのです。正方形のテーブルの絵を描くときに、それを完全に正方形に描かないのと同じことです。

もう一つは
自 分の経験は、他人と同じ経験だということを確かめる術がないことです。人間は一人なので経験を絶対的な根拠にするということは、主観を根拠に科学を構築するということになります。客観的な科学とは相反するものになってしまいます。AとBの異なる人間が空を見ても、Aは自分と同じようにBも空が見えているん だろうと想像するだけで、同じものを見ているということは厳密には確かめられないのです。つまり人間の経験則に基づくことが十分な根拠とはいえなくなっているのです。

ボルツマンは近代物理学の手法の開拓者でありました。より深い世界を理解するためには、新しい概念を導入し理論を構成し、それを実験結果と比較しながら理論を検証するといことです。もちろん既成の理論を駆使して新しい理解をもとめるというのは一級の仕事ではあるのですが。

この歴史を経て、「間違っていることは証明できるが、正しいことは証明できない」という立場にたち、現代物理学の哲学は「厳しい批判にさらされて洗練されて残ったものが正しい理論である」といえるでしょう。

現に経験からかけ離れた量子力学のspinや不確定性原理を受け入れた結果、パソコンやMP3プレーヤーなどの技術革新をまきおこしているのです。

2 件のコメント:

Mizuki さんのコメント...

おもしろいねー
この話は本にあったやつ?それともとびーの考え??

Tobiokande さんのコメント...

コメントありがとう。おもしろいなら良かった、こういうのを書くとき文才の無さを実感する・・

この話の大筋は本の内容に沿ってるけどいくらか具体例とか解釈を付け足しているよ