2008年12月21日日曜日

やがて哀しき外国語

UCSDの友達に貸して忘れていた村上春樹のエッセイ「やがて哀しき外国語」

この前の状況の際に手元に返ってきた。

パラパラっと自分が付箋をつけていたところをめくると、「バークレーからの帰り道」という章でジャズについて書いてある箇所に目が留った。

バークレーで村上がタクシーに乗って移動していた。そして運転手とジャズの話になったので、運転手はラジオのチャンネルをジャズに合わせてくれた。

村上は小説を書く前はジャズ喫茶をしていたくらいなので、そこで流れたバラードのサックスがウェイン・ショーターで、ピアノがハービー・ハンコックだとすぐにわかった。僕の経験からすると、日本でジャズをやっている人は非常にジャズに関する知識が豊富だ。だから村上がこれくらいぱっとわかるのも珍しいことではない。

運転手のおじさんはニューヨーク出身なので、村上がジャズに通じていることを悟って、こう言った。

日本人は黒人の音楽を理解してきちんと扱ってくれるよな、ヨーロッパ人と同じように。ただ、おれたちはこの国では本当に犬のように扱われるんだ。誰もジャズに敬意を払ってなんかくれはしないよ。

おじさんはオー・ヤーという口癖をはさみながら続ける。

日本人は優れた国民だと思うよ。なんにしても熱心だし、真面目だ。日本人はアメリカ人と比べ物にならないくらい本を読むらしい。
アメリカ人はたくさん本を書く、けど、それを読む人間は少ない。日本人はそれを読む。そしてアメリカ人より良く理解するんだよ、オー・ヤー。


もちろん作家の村上は、日本人だって本を書いている、と言いたかっただろうが、納得してしまう部分もあった。つまり、確かに日本人というのは何かを取り込むというというのに長けた人種で、長年かけてそういうシステムを構築してきた。ただ、「本を書いた」のはアメリカ人なのだ。ジャズにしても、作ったのは黒人である。

ジャズ研究の質は日本ははっきり言ってアメリカを上回るに違いない。ジャズをやる上でそういった研究も大事なことではある。しかし、もしそう言ったら、おじさんはこう返すだろう

「そいつは凄いね、けどあれは俺たちの音楽なんだよ」

するとこっちがオー・ヤーと言うしかなくなる。



このやりとりは非常に印象に残っている。極端な話、日本人は何かを取り込み改良するのには長けている、どちらかといえば0から1を生み出すようなのは苦手である。

独創性の定義に拠るが、それがないわけではない。しかしアインシュタイン、マイルス、ピカソのように大転換を引き起こした日本人を僕は知らない。彼らに相当する人が居ても、日本語と日本という小さな枠組みによって影響が拡散しないだけかもしれない。

何が言いたいわけではないが、日本人は「俺たちの音楽」を生み出すことにベクトルは向いていない。もともと取り込むことが中心の社会だったのだから、如何に上手くそれを進化させたか、という点について人や仕事を評価するのは自然だろう。

その中で独創性を評価しようという最近の動きに違和感を感じてしまうのは、結局、独創性を重んじるというのは日本の価値観ではなく西洋の価値観からきているからだ。しかし、自分は独創的な仕事をしたいと思ってしまう。これは現状において自然な考えなのだろうか、それとも西洋的な考えに傾倒しているのだろうか。

国と国の敷居は下がり、diversityが増大する中で、価値観というのもミックスされて文化や国という枠組みは曖昧になっている。そんな中、日本において「俺たちの音楽」というのは生まれてくるだろうか。

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