2009年1月7日水曜日

直観と要請 ~数学と物理の違い~

前々から書きたいと思っていた(仰々しい)タイトルですが、上手くまとめれるか不安。

タイトルの二つの言葉は物理の世界でよく使われる言葉で、大学に入る前は全くなじみのなかった言葉です。

初めて先生が「直観」・「要請」と言った時は「直感?」・「養成?」と勘違いしてしまいました。しかし、これらの言葉は物理と数学の間をつなぐものとして非常に重要なのです。


歴史的に見ると、数学と物理は一緒に発展してきました。古典力学には微積分が使われ(ニュートンは力学の創始者として有名ですが、実は微積分を作った人でもあり ます)、量子力学には行列・線形代数、素粒子理論や物性理論には群論、さらに一般相対論にはリーマン幾何というように数学の発展が物理に寄与し、その逆も 起きました。

そういう状況なので、理論物理というものはすごく数学的です、というか限りなく数学に近いです。あらゆる概念は数式化され、それらを組み合わせ、新たな数式に落としていきます。実際やっていると、特に馴染みのない分野なんかだと、いったい自分は物理をやっているのか数学をやっているのかわからなくなるときもあります。


そこでタイトルの二つの言葉が登場します。意味を簡単に説明しますと、

「直観」(intuition) というものは、抽象的な数式を具体例を用いたり、言葉や映像によって説明することによって得られる感覚的なイメージです。これは「理解する」というステップに大きく関わってきます。普通の人間は抽象的なものを抽象的なまま理解するのは難しいはずです。一部の人間はそうでもないみたいですが・・

例えば作用反作用の法則を理解したい。この法則を「直観」的に言うと、押した分だけ必ず押し返される。実際、スケートリンクで人を押したら自分も後ろに行きますよね。

一方で「要請」(requirement) とは、現実の事象から考えて自然だろうという仮定を用いることです。要請は仮定より意味が強く、どちらかといえば公理に近い、といったものです。意味が強いといったのは、曖昧さが少なく、より自然な帰結だということです。

例えば、地球を東に走ったら一周できた、それでは西に走っても同じように一周できるはず。振り子が右に振れるのと同じように左に振れるのが自然である、といった類のものが「要請」です。


数学を数学のまま扱っている場合、それは非常に厳密です。しかし、物理ではありません。

定量的に評価するためには数学を使うしかありませんが、数学の式変形や論理展開、様々な定理を使いこなすことだけなら、数学を専門にする人には敵いません。

では、物理は何をするか?

出てきた式に対して物理的な解釈を与えたり、意味を成さないものは切り捨てます。「直観」的意味を成す方向にのみ論理を進めたりもします。または、「要請」という橋渡しをして数学的な展開をもう一歩先に進めます。もしくは「要請」といったものが問題提起そのものであったりもします。論理に対してちょっとだけ「人間の見方」を加えてやるのです。

現実世界を記述したいという動機から生じる仮定が「要請」で、要請はある程度の数学的厳密性を保ちます。人間というレンズで式を見ることが「直観」で、これは厳密な数式から離れて解釈のところまで落とします。例を見ながら二つの言葉を説明しましょう。

まず運動量保存則。これはほとんど先の作用反作用の法則と同義だと考えて結構です。この保存則は実は完全に厳密ではなく、空間の均質性の「要請」から来ているものです。空間の均質性とはあらゆる空間点で物理系は同じだという意味です。

例えると、リンゴがテーブルの上にあったとしましょう、それを隣の家の冷蔵庫の中に置きます。でもリンゴはリンゴのまま変わりませんよね。こういった当たり前な(自然な)ことなんです。逆に言い換えると特別な空間は存在しないということです。先の例だと、冷蔵庫に入れたときだけリンゴがバナナに変わることはないのです。この「要請」からネーターの定理というものを使って運動量保存則が導かれます。エネルギー保存則の方は、時間の流れは均質であるという「要請」から同じ定理により導かれます。


「直観」的な説明が必要な例として、量子力学のトンネル効果があります。当たり前ですが、マクロな系ではボールを壁に向かって転がした場合、壁の高さがボールより高ければボールは必ず跳ね返ります。壁はいくら薄くても壊れないものとします。

ではミクロの世界ではどうか?トンネル効果とは、例えば電子を見ているとき、電子の存在確率というものが量子効果によって壁の先にも存在していることです。これは量子力学の基礎ですが、直観的に言うと、電子がある確率で壁をすり抜けることができ、先に進むことがある。ボールは壁がある限り、どんなに薄くても絶対に先には行けませんが、電子は薄ければ薄いほど高い確率で壁をすり抜けられるのです。
「直観的解釈」とはこういうことです。この場合、実は式を導くのは簡単なのですが、現象を理解するとなるとそう簡単ではないでしょう。数学的には自然な結果でも、普通は考えられない変なことを示している場合はしばしばあるのです、そういうときは直観的に説明が必要になります。

アメリカでも複雑な説明をされた時は、よく「What does it mean by intuition?」と聞き返していました。厳密ではないにせよ、直観が物理的なイメージを構築するのです。


以上のように「直観」と「要請」は、数学と物理に違いを与える要素なのです。


最後に「自然な要請」が間違いであった、非常に面白い例を挙げます。

それはパリティと呼ばれる、鏡の世界に物理系を移し変える変換についてです。長く、物理学者たちはあらゆる物理現象は空間反転(つまり鏡に映して、xは-x、yは-yに移る作業)した世界でも全く同様に起こると考えていました。それを要請して理論を構成しようとしていました。


ニュートリノというものがあります。これは一種の自転をしているのですが、ニュートリノの進行方向が決まるとその自転は右回りと左回りがあります。左回りのものは鏡に映すと右回りに見えます。つまり、鏡の世界も対称に存在するならば、右回りのニュートリノも左回りのニュートリノも同じだけ存在しなければいけません。

しかし、実験により左回りのニュートリノしか存在しないことがわかりました!そして右回りのニュートリノは現在までひとつもないのです。


現実と鏡に映した世界は対称ではなく、自然は左に片寄っていることがわかりました。ある学者が言うには、

神は左利きなのです!


少し胡散臭いですが、この例えは本などでたまに使われます。
このように、「自然な要請」が自然と噛み合わないこともあるのです。

この例でわかる様に、物理は「人間」というエッセンスが数学に入っています。
そう、人間は失敗するものです。

しかし、人間の見方しか私たちには意味をなさないのも事実です。

以上



ここまで読んだ方、ご苦労様です。コメントをご自由に残してください。(これから推敲します・・)

4 件のコメント:

arithy さんのコメント...

私はシミュレーションが専門ですが,それに欠かすことのできない理論の勉強をしていて,ずっと気になっていた概念がありました.それが「物理的要請」です.この主観に満ちたような恣意的な数学的仮定がなんとも自分の中で腑に落ちませんでした.そう仮定するのが確かに自然で納得なのですが,この人間主観の納得性を勝手に理論に持ち込んでよいものなのか,理論から得られる結果がこれにより歪曲されはしないかと,疑問を持ち続けていました.

説明頂いた内容は,この疑問に非常にうまく答えて頂いていると感じます.極々端的に言えば,
 物理数学人間の認識と理解
ということですね.なるほどと思わせられました.人間の認識と理解抜きには物理は存在しえないというこの至極基本の事実を認識していなかったことに,今更ながら気付かされました.

Tobiokande さんのコメント...

arithyさんコメントありがとうございます!
おっしゃる通り、数学に人間を足したのが物理に違いないと思います。

物理的要請というのは私もはじめは馴染めませんでした。なぜ要請を用いるのか?というのは明確ではないと思いますが、物理の学生は少ない要請で驚くほど多くの結果がもたらされるので、徐々にこの概念に馴染んでいくのでしょう。

もちろん少ない仮定で理論を構成する方が良いですよね。しかし、行き詰まった場合にすべての方向を検討するより、要請を用いて方向づけをすることが「思考の節約」にもなるのでしょう。

宇宙論なんかでも色々と「思考の節約」が用いられているようです。例えば、(仮にあるとすれば)現宇宙の外や宇宙創成の前など我々に影響を及ぼせないものを科学的に論じてもしょうがないんですね。

IJUIN007 さんのコメント...

私は工学部系出身で、力学系の実験と解析を行ってきています。
文系の学生たちに、数学、物理学、工学などを説明する際に、arithyさんの概念も参考にさせていただきました。
説明する際に、若干違和感をもって勝手に改訂しているのが、
「物理=数学+人間の認識と理解」は、
「物理=人間の認識と理解+数学」ではないでしょうか?
物理現象をより厳密に理解したり、予測したりする際に、数学的帰結(理論)を論理的に用いているのではないでしょうか。

些細なことではありますし、先端科学の人間でもありませんので、後学のために教えていただけると幸いです。

Tobiokande さんのコメント...

>IJUIN007さん
コメントどうもありがとうございます。
おそらくarithyさんがおっしゃっているのは、
「物理=数学+”人間の認識と理解”」
ということだと思います。

>物理現象をより厳密に理解したり、予測したりする際に、数学的帰結(理論)を論理的に用いているのではないでしょうか。

その通りです。物理は自然現象を定量的に評価したいので、その(唯一の)言葉として数学を使い、それで論理を作り結果を表現するわけです。

蛇足ですが、道具としての数学だけじゃなく、物理の発展のために新しい数学が必要なこともあります。
有名な例として、一般相対性理論を作るためには曲がった時空を記述するリーマン幾何学が不可欠です。さらに横道にそれますが、当時、リーマン幾何学は最先端の数学だったため、物理学者であるアインシュタインは一般相対性理論を作ろうとした時にそれを知りませんでした。結果、数学者ヒルベルトがアインシュタインより数日先に基本式を作ってしまい、基本式はアインシュタイン・ヒルベルト作用と呼ばれています。
さらに、私の専門である素粒子理論では対称性という概念が非常に重要なので、対称性を記述する「(リー)群論」が必要な数学となっています。蛇足でした。